P30
バイブルはもともと、本(ビブロ)の意味。本と言えば、聖書のことでした。
キリスト教の聖書は、旧約聖書(old Testment)、新約聖書(New Testment)
二冊あります。
ちなみにTestementとは、契約という意味です。
ユダヤ教の聖書は、旧約聖書。なのですが、これはキリスト教の言い方なので、ユダヤ教ではタナハ(Tanakh)といいます。
旧約聖書は、ヘブライ語。新約聖書はギリシャ語。
タナハ(旧約聖書)が現在の形に固まったのは、一世紀末のユダヤ教ラビたちの会議です。キリスト教会は、それをそっくり、旧約聖書にしました。
新約聖書は、イエス・キリスト以後の、キリスト教徒だけの聖書。
P52
アブラハム(Abraham)
アブラハムは、ノアの息子セムの十代目の子孫。最初アブラムという名前で、ユーフラテス川下流の、ウルという大都市に父と一緒に住んでいました。
P57
イスラエル(Israel)
イスラエルはもともと人間の名前です。
アブラハムの息子がイサク。イサクの息子がエサウとヤコブの兄弟です。
イスラエルとは、エル(神)と争う、の意味。ヤコブは神からイスラエルと呼ばれると言われた。
ヤコブ=イスラエル
ヤコブの家=イスラエルの民
イスラエル十二部族はやがて、ダビデ王、ソロモン王の時代に統一王国を作りますが、ソロモンが亡くなると、南のユダ続のユダ王国と、北のそれ以外の部族のイスラエル王国に分裂します。
それから、まもなくアッシリアが攻めて来て、北のイスラエルは滅亡し、ユダ族だけが残った。
ユダ族の人(ユダヤ人)と、イスラエルの民とは、同じ意味になったのです。
P63
モーセ(Moses)
モーセは最も偉大な預言者です
旧約聖書の最初の5つの書物を、モーセ五書といいます。5つともモーセが著したと考えられ、律法の書(トーラー)といいい、ユダヤ教ではもっとも重視するのです。
P69
十戒(ten commandments)
十戒は、モーセがシナイ山で受け取った、神ヤハウェの掟です。
サムソンとデリラ
ダビデ/ソロモン(David/Solomon)
預言者(Prophet)
一神教になくてはならないのが、預言者です。
預言者はGodの声を聞く人のこと。誰であってもかまいません。旧約聖書の預言者は全部で100人ほどにもなります。
新約聖書の重要な預言者は、洗礼者ヨハネです。
P93
苦しみ(suffering)
苦しみが与えれれるとき、神も、その苦しみをともに苦しみます。
この世界が不完全でも、苦しみや悲しみがあっても、それを乗り越えて生きるように、人間は造られています。
P110
神(God)
キリスト教のほかに、ユダヤ教も、イスラム教も、たった一人しかいない神、を信じる一神教です。
しかも、とても大事なことですが、
キリスト教の神(God)=ユダヤ教の神(ヤハウェ)=イスラム教の神(アッラー)、なのです。
この三つが同じ神だということは、イスラム教の聖典(コーラン)にはっきり書いてあり、キリスト教徒やユダヤ教徒もこのことを認識しています。
アッラーも名前ではなく、アラビア語で「神」という意味。
ヤハウェも厳密には名前ではなく、しいて英語になおすと「being」にあたり、、「生きている」「存在する」「永遠の」といった、神の性質を表します。
罪(sin)
洗礼者ヨハネ(John the Baptist)
洗礼者ヨハネは、荒野にいました。イザヤ書が描く、預言者の姿です。
「悔い改めよ、審きの日は近い」
ナザレのイエスも、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けています。
イエスはヨハネの弟子だったのです。
でも、それでは、キリスト教としてはちょっと具合が悪いので、あいまいになっています。
P121
愛(love)
愛こそはキリスト教。キリスト教こそは愛。愛は、一番大事な考え方です。
「愛」と漢字で書くと、元は仏教用語。ものごとに執着するという、悪い意味でした。
英語で、愛は、ラブ(love)。
神と人間の愛も、人間と人間の愛も両方、同じ言葉で表します。
けれども、新約聖書の言葉であるギリシャ語では、ラブにあたる言葉がいくつもあります。
エロス(相手に価値があるので、愛する。)
フィリア(友達なので、愛する。)
そして、アガペー(相手に価値がなくても、愛する。)
神の愛は最後の、アガペーです。
神の眼から見れば、人間なんか、価値が無い。むしろ罪があって、マイナスです。価値が無い人間を、それでも愛する。神には何の得にもならないので、無償の愛です。
神が人間を愛するのは、「無償の愛」アガペーなのです。
赦し(forgiveness)
罪があっても、罰しない。相手を責めない。あるがままに受けれる。それが赦しです。
P130
哲学は、世界を正しく理解しようとするやり方ですが、厳密に全てのことの証拠をあげようとすると、たちまち行き詰まってしまいます。
私たちの世界は、証拠があがらなくても、確実に正しい、と人々が思う事柄を多く含むのです。
宗教もそうしたもののひとつです。
「神を信じる」のは、証拠の問題ではありません。むしろ、態度というか、決断というか。生き方の問題です。
ヨーロッパ世界がそれほどにも哲学や科学を重視するのは、宗教戦争の苦い経験によるのだと思います。
キリスト教は、宗教改革の結果、カトリックとプロテスタントに分裂しました。
プロテスタントも、いくつもの教会に分かれました。同じキリスト教徒のグループが考えた方の違いから100年あまりも互いに殺し合ったのです。
それをやめることにし、教会の外、すなわち政府や自治体や企業や学校や地域社会では、宗教の話をしない。
人々の合意をうるにいは、哲学や科学をもとに、証拠に基づいた議論で相手を説得する。
こういうルールになったのです。
こうして、政府と教会が分離し、(政教分離)、企業や学校や地域社会は宗教と無関係な世俗の空間ということになりました。
以上はキリスト教の特徴です。
これに対してイスラム教は、
いくも教会があるわけでもないし、宗教戦争による殺し合いもなかったので、宗教と、法律や哲学とは、きれいに分離していません。社会全体が宗教にどっぷりつかった状態です。
神(アッラー)がいるのは当たり前ですから、人々はそのことに証拠を求めたりしません。
神(god)がいるのは当たり前だと、大勢の人々が思っている点は、キリスト教も同じです。そういう人々は、教会に行きます。
けれども、哲学や科学をやろうとか、それを大学で教えようという人々は、教会とは関係ないふりをしていたり、教会と関係ないのを自慢したりします。
そういう人々を、日本の知識人はお手本にしてきたのです。
ここまでの話をまとめましょう。
「証拠がある」ことにこだわってものを考えていっても、自分がなぜ存在するのかとか、世界はどうしてこのようなのかといった、根本的な疑問は解決しないのです。
哲学や科学では、人間のいちばん大事な疑問に答えることができません。
そうなら、答えが分からなくてもいいや、と思って生きていくか、
それとも、
自分なりの答えがあったことにしよう、と思って生きていくか、
どちらかなのです。
アメリカで様々な教会を見学していたとき、ある牧師さんはこう言いました。人間は二種類いる。全ては当たり前のように起こっていると思う人と、全ては奇蹟として起こっていると思う人だ、と。
後者が「神を信じる」ことだと思います。
P157
死(death)
聖書では、動物と人間に、生命があると考えます。
鼻で、息をしているからです。
この息(生命の息吹)を、神はアダムに吹き入れました。
最後の息が神のもとに帰っていくと、人は死にます。
死ねば、もとの材料である、土に戻ります。
死は、このように、息がなくなることなので、死んだあとの「霊魂」は、ありません。
死者がおもむく「死者の国」もありません。
これが、旧約聖書をつくったイスラエルの人々の考え方でした。
キリスト教は、復活の考え方をユダヤ教から受け継ぎました。イエス・キリストは復活しました。
人間も、やがて全員が復活すると考えます。
新約聖書は、人間が復活することを前提に、すべての話が書いてあります。
復活(resurrection)
復活とは文字通りに死者が生き返ること。「肉体が死んでも魂が永遠に生きる」ではありません。
それはギリシャ人の考え方です。
そうではなくて、再び肉体が与えられて、その人がまた生きる。これほど驚くべきGODの奇蹟はない。
ところで、旧約聖書には復活はほとんど描かれていません。ユダヤ教徒は、少なくともイエスの時代に近くなるまで、復活を信じていなかったのです。人間は死ねば、土に還ると考えていました。
P184
権威(authority)
キリスト教の特徴は、教会と政府(王様)が、直接関係ないことです。
これは、キリスト教が始まった当時の、歴史と関係があります。
キリスト教は、ヘレニズム世界に信者を増やしていきました。
ヘレニズム世界とはローマ帝国が支配する地中海のことです。
ギリシャ語が共通語でした。(ギリシャ人のことをヘレネスと言いました)。
だから、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。
ローマ帝国ははじめはキリスト教を危険視しました
最後の審判(the last judgement)
やがてこの世は、終わりの日を迎えます。
その日には、生きている人間も、死んだ人間もすべての人間が審判を受けます。
https://www.bible.com/ja/versions/68-gnt-good-news-translation
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