P43
超人思想
空気を読むより、自分を信じる - ニーチェ
Q 同じ毎日の繰り返しでむなしいときは?
誰にも殺すべき神がいる。
ニーチェなら「むなしいと思ったら、自分で破壊し、おもしろい人生を創造しなさい」と言うでしょう。
私は受験生によく
「キミたちにとっての神は今の偏差値なんだ」と話し、
「神は死んだ」と板書きするとすごく受けます。
神を殺さない限り、偏差値の高い大学に合格しないのです。
。。。。
・なぜ私は、人が手柄をあげると心配になるのか?
「負けるが勝ち」の精神で、前向きに受け止める
・なぜ私は、早く帰る若者が嫌いなのか?
考えた方が違うのは仕方ない、という「諦め」が肝心
・なぜ私は、人から信頼されないのか?
何事も、損得勘定で考えていませんか?
・なぜ人は、陰口・悪口が好きなのか?
他人が気になって仕方がないのは、人間の性
・なぜ私は、将来が不安なのか?
「必ず死ぬ」ことがわかっているから
「人間の定義は宗教を持つことだ」
「全ての生物のなかで、人間だけが「自分は死ぬ」ことを分かってる」と。
命には限りがあるから、絶対的な不安が生じてしまう。
しかもいつ死ぬか、死んだらどうなるか、わからないことばかり。
だからいつまでも不安は消えない。
これは仕方がないことです。
その不安から抜け出そうと人間は宗教を持ちました。
生き死にの問題は宗教にとって永遠のテーマですし、その答えを得たいと思う心が、宗教家の一番のモーチベーションです。
その答えさえ得られたら、修行は終わりと言ってもいい。
今この瞬間を生きることに心を尽くす。
・なぜ私は、一人になりたいと思うか?
そもそも一人になりたいのが人間だ。
・なぜ私は、人に弱みを見せられないか?
自分に期待しすぎているからでしょう。
・なぜ最近、友達がどんどん減っていくか?
本人以上に苦しみを背負えないから
・なぜ人は、見た目が気になるか?
外見に中身がにじみ出るからです。
・なぜ人は、学歴を気にするのか?
わかりやすい社会的評価が他に無いから。
・お金持ちはなぜお金持ちなのか?
お金の「使い方」を知っているからです。
2018年1月11日木曜日
投稿日 2018年1月11日木曜日
更新日
2017年4月4日火曜日
投稿日 2017年4月4日火曜日
更新日
読みかじり - 東洋哲学 最初に「悟り」あり。テーマは「我」。論理よりも体験を重んじる哲学 - プレジデント(05DEC17)
P30より抜粋
ー 東洋哲学と西洋哲学の違いって何ですか?
大きく異なるのは、真理に対する前提ですね。
誰もが無知で、真理を分かっていないと考えるのが西洋哲学。
そこで「これが真理なのでは?」「いや違うだろう」と議論を重ねて、先人の主張を壊し、また組み立て、何千年かけてバージョンアップさせていく。究極の真理に近づくため、意見を積み重ねる(階段型)と言っていいでしょう。
対して、東洋哲学は、
最初から「はーい。私、真理が全部わかっちゃいました~」という人が現れます。
ー いきなりゴールに到達!
彼らが悟った真理は絶対で、それ以上はありません。
でも、開祖が亡くなると、「あの発言はこんな意味だったのでは?」とやはり議論が始まり、多様な解釈が広がっていく。
東洋哲学は開祖を頂点にした「ピラミッド型」なんです。
またテーマも異なります。
「世界の根源は何か」
「世界を客観的に正しく認識するにはどうすればいいか」
と、西洋哲学は関心が外側に向かう。
でも東洋哲学では世界はどうでもよくて、関心が向かうのは人間の内側。
自己探求であり、「私って何だろう」なんです。
●西洋は真理を「知る」「理解する」のですが、東洋は「悟る」。
「悟る」は、知識として知っただけではダメ。
体験が必要なんです。
滝に打たれるなり苦行するなり、強烈な体験をして「わかったぞー!」というリアルな実感があって、本当にわかったと認められる。
でも論理は人に伝達できても、体験は伝達できないから、絶望的な戦いなんです。
開祖が屋根に屋根に上って、この世で誰も見たことのない景色を見たのだとしたら、信徒たちはその屋根に上るしかない。
その景色を見る体験が重要であって、上る手段はハシゴだろうが階段だろうが、何だっていい。
そこで後世の弟子が創意工夫して編み出したのが、体験的な理解を発生させるための手段、いわゆる「方便」です。
「念仏」「坐禅」「瞑想」だったり、時には「なぞなぞに答えなさい」だったり。
なぞなぞは禅の公案のことで、別に開祖はなぞなぞのナの字も示してはいない。
そした方便の違いが宗派の違いになって枝分かれしていきます。
一方、西洋哲学は体験を必用としません。真理を知ったという人は、言葉と理屈を尽くして説明できればOK。
結果、
西洋哲学は偉い学者の集まりに、東洋哲学は宗教に転じやすい。
ーーーーーーーーーーーーーーー
・日本人の思考ベースになっている仏教と儒教が日本に伝わるまでの概略。。。。
まず、東洋哲学の機嫌から。
紀元前800年ころ、今のイランにいたアーリア人がインドを侵略し、「祭祀、王族、庶民、奴隷」という階級制度を作りだします。
当然、自分たちは祭司になるんですけど、偉い人は大体ヒマなので、小難しいことを思索しだしたのが、東洋哲学の始まりと言われています。
そして、アーリア人は「究極の真理に到達できるのは偉大な祭司だけ」とうい物語を後付でつくって、国を支配していました。
しかし、ヤージュニャヴァルキヤという哲人が、階級制度なんて嘘っぱちだと見抜いたことで、祭司以外の人も「究極の真理に到達したい!」と自己探求を始めます。
それが、インドを席巻する大ブームになり、そこに乗っかったのが、仏教の開祖・釈迦です。
釈迦はゼロの状態からオリジナルで全てを悟ったわけではなく、出家した後で悟りの境地にたどりつきます。
そして、仏教の基礎となる教義・四諦と八正道を悟りました。
釈迦のカリスマ性によって、仏教はバラモン教をしのぐインド最大の宗教に発展していくのですが、やがて釈迦も食あたりで80歳で死にます。
さきほどのように、
開祖を失った組織は、解釈をめぐって次第にギスギスしてきます。
そして、釈迦の死後100年、今でいうところの、大乗仏教と小乗仏教に分裂しました。
大衆に向けて戒律を緩くした大乗仏教は成功を収めますが、そのせいで新興宗教になりかけます。
そこに現れたのが、釈迦の哲学を理解し、さらに発展させてしまう天才・龍樹。
彼は釈迦の縁起という哲学に注目し、それを600巻以上の経典・般若経としてまとめました。
さらに262文字に凝縮した経典が「般若心経」ですね。
しかし、宗教も栄枯盛衰。やがて個性的な神さまと呪術的な儀式によって、大衆の心をがっちりつかんだヒンドゥー教にインド仏教は駆逐されていきます。
さらにインドに侵入したイスラム教徒が寺院を破壊しまくって、インドの仏教は絶えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
時計の針を戻すと、仏教は東へ伝播して、中国へも渡っていきます。
でも、仏教と中国の相性はよくなかった。
現世利益を好む中国人にとっては、人生を儚む仏教の考えは「はあ?何言ってるの?」ですから。
当時、中国の思考基準になっていたのは、儒教です。
紀元前500年頃、仕官を目指していた孔子が「仁と礼を大事にしなさい」と主張していたのが、始まり。(思いやりを持って、礼儀正しく生きましょう)
この教えは孔子が不遇のまま死んだ後、弟子たちによって喧伝され、やがて儒教へ発展していきます。儒教は「人生は楽しいもの」というスタンスですから、「人生は苦」を提唱する仏教とは相容れなかった。
ただ、中国には老子という先人がいたのです。
老子の哲学の根本は「道タオ」というもので、「捨てなさい」「損をしなさい」など、現世利益とは全く逆の志向です。
釈迦の教えに似ているから、「老子は晩年インドに渡って、釈迦と改名した」説もあるぐらいで?
それで、老子の哲学を学んだ道家という学派によって、仏教の研究は引き継がれていきました。
さらに、老子の死後から200年経つと、老子以上に老子の哲学を分かりやすく説く後継者・荘子が現れます。
この「老荘思想」をベースに仏教を解釈すると、2つは似通っているから非常に腑に落ちるんです。
やがて中国仏教は禅が誕生し、さらに東へと伝播し、朝鮮半島、そして538年、百済王の王から仏像と経典が伝わり、日本の仏教が始まったのです。
http://amzn.asia/gJ0uYML
ー 東洋哲学と西洋哲学の違いって何ですか?
大きく異なるのは、真理に対する前提ですね。
誰もが無知で、真理を分かっていないと考えるのが西洋哲学。
そこで「これが真理なのでは?」「いや違うだろう」と議論を重ねて、先人の主張を壊し、また組み立て、何千年かけてバージョンアップさせていく。究極の真理に近づくため、意見を積み重ねる(階段型)と言っていいでしょう。
対して、東洋哲学は、
最初から「はーい。私、真理が全部わかっちゃいました~」という人が現れます。
ー いきなりゴールに到達!
彼らが悟った真理は絶対で、それ以上はありません。
でも、開祖が亡くなると、「あの発言はこんな意味だったのでは?」とやはり議論が始まり、多様な解釈が広がっていく。
東洋哲学は開祖を頂点にした「ピラミッド型」なんです。
またテーマも異なります。
「世界の根源は何か」
「世界を客観的に正しく認識するにはどうすればいいか」
と、西洋哲学は関心が外側に向かう。
でも東洋哲学では世界はどうでもよくて、関心が向かうのは人間の内側。
自己探求であり、「私って何だろう」なんです。
●西洋は真理を「知る」「理解する」のですが、東洋は「悟る」。
「悟る」は、知識として知っただけではダメ。
体験が必要なんです。
滝に打たれるなり苦行するなり、強烈な体験をして「わかったぞー!」というリアルな実感があって、本当にわかったと認められる。
でも論理は人に伝達できても、体験は伝達できないから、絶望的な戦いなんです。
開祖が屋根に屋根に上って、この世で誰も見たことのない景色を見たのだとしたら、信徒たちはその屋根に上るしかない。
その景色を見る体験が重要であって、上る手段はハシゴだろうが階段だろうが、何だっていい。
そこで後世の弟子が創意工夫して編み出したのが、体験的な理解を発生させるための手段、いわゆる「方便」です。
「念仏」「坐禅」「瞑想」だったり、時には「なぞなぞに答えなさい」だったり。
なぞなぞは禅の公案のことで、別に開祖はなぞなぞのナの字も示してはいない。
そした方便の違いが宗派の違いになって枝分かれしていきます。
一方、西洋哲学は体験を必用としません。真理を知ったという人は、言葉と理屈を尽くして説明できればOK。
結果、
西洋哲学は偉い学者の集まりに、東洋哲学は宗教に転じやすい。
ーーーーーーーーーーーーーーー
・日本人の思考ベースになっている仏教と儒教が日本に伝わるまでの概略。。。。
まず、東洋哲学の機嫌から。
紀元前800年ころ、今のイランにいたアーリア人がインドを侵略し、「祭祀、王族、庶民、奴隷」という階級制度を作りだします。
当然、自分たちは祭司になるんですけど、偉い人は大体ヒマなので、小難しいことを思索しだしたのが、東洋哲学の始まりと言われています。
そして、アーリア人は「究極の真理に到達できるのは偉大な祭司だけ」とうい物語を後付でつくって、国を支配していました。
しかし、ヤージュニャヴァルキヤという哲人が、階級制度なんて嘘っぱちだと見抜いたことで、祭司以外の人も「究極の真理に到達したい!」と自己探求を始めます。
それが、インドを席巻する大ブームになり、そこに乗っかったのが、仏教の開祖・釈迦です。
釈迦はゼロの状態からオリジナルで全てを悟ったわけではなく、出家した後で悟りの境地にたどりつきます。
そして、仏教の基礎となる教義・四諦と八正道を悟りました。
釈迦のカリスマ性によって、仏教はバラモン教をしのぐインド最大の宗教に発展していくのですが、やがて釈迦も食あたりで80歳で死にます。
さきほどのように、
開祖を失った組織は、解釈をめぐって次第にギスギスしてきます。
そして、釈迦の死後100年、今でいうところの、大乗仏教と小乗仏教に分裂しました。
大衆に向けて戒律を緩くした大乗仏教は成功を収めますが、そのせいで新興宗教になりかけます。
そこに現れたのが、釈迦の哲学を理解し、さらに発展させてしまう天才・龍樹。
彼は釈迦の縁起という哲学に注目し、それを600巻以上の経典・般若経としてまとめました。
さらに262文字に凝縮した経典が「般若心経」ですね。
しかし、宗教も栄枯盛衰。やがて個性的な神さまと呪術的な儀式によって、大衆の心をがっちりつかんだヒンドゥー教にインド仏教は駆逐されていきます。
さらにインドに侵入したイスラム教徒が寺院を破壊しまくって、インドの仏教は絶えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
時計の針を戻すと、仏教は東へ伝播して、中国へも渡っていきます。
でも、仏教と中国の相性はよくなかった。
現世利益を好む中国人にとっては、人生を儚む仏教の考えは「はあ?何言ってるの?」ですから。
当時、中国の思考基準になっていたのは、儒教です。
紀元前500年頃、仕官を目指していた孔子が「仁と礼を大事にしなさい」と主張していたのが、始まり。(思いやりを持って、礼儀正しく生きましょう)
この教えは孔子が不遇のまま死んだ後、弟子たちによって喧伝され、やがて儒教へ発展していきます。儒教は「人生は楽しいもの」というスタンスですから、「人生は苦」を提唱する仏教とは相容れなかった。
ただ、中国には老子という先人がいたのです。
老子の哲学の根本は「道タオ」というもので、「捨てなさい」「損をしなさい」など、現世利益とは全く逆の志向です。
釈迦の教えに似ているから、「老子は晩年インドに渡って、釈迦と改名した」説もあるぐらいで?
それで、老子の哲学を学んだ道家という学派によって、仏教の研究は引き継がれていきました。
さらに、老子の死後から200年経つと、老子以上に老子の哲学を分かりやすく説く後継者・荘子が現れます。
この「老荘思想」をベースに仏教を解釈すると、2つは似通っているから非常に腑に落ちるんです。
やがて中国仏教は禅が誕生し、さらに東へと伝播し、朝鮮半島、そして538年、百済王の王から仏像と経典が伝わり、日本の仏教が始まったのです。
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2016年5月8日日曜日
投稿日 2016年5月8日日曜日
更新日
読みかじり - はじめての聖書 (14歳の世渡り術) 単行本 – 2014/12/19 橋爪 大三郎
はじめての聖書 (14歳の世渡り術) 単行本 – 2014/12/19
P30
バイブルはもともと、本(ビブロ)の意味。本と言えば、聖書のことでした。
キリスト教の聖書は、旧約聖書(old Testment)、新約聖書(New Testment)
二冊あります。
ちなみにTestementとは、契約という意味です。
ユダヤ教の聖書は、旧約聖書。なのですが、これはキリスト教の言い方なので、ユダヤ教ではタナハ(Tanakh)といいます。
旧約聖書は、ヘブライ語。新約聖書はギリシャ語。
タナハ(旧約聖書)が現在の形に固まったのは、一世紀末のユダヤ教ラビたちの会議です。キリスト教会は、それをそっくり、旧約聖書にしました。
新約聖書は、イエス・キリスト以後の、キリスト教徒だけの聖書。
P52
アブラハム(Abraham)
アブラハムは、ノアの息子セムの十代目の子孫。最初アブラムという名前で、ユーフラテス川下流の、ウルという大都市に父と一緒に住んでいました。
P57
イスラエル(Israel)
イスラエルはもともと人間の名前です。
アブラハムの息子がイサク。イサクの息子がエサウとヤコブの兄弟です。
イスラエルとは、エル(神)と争う、の意味。ヤコブは神からイスラエルと呼ばれると言われた。
ヤコブ=イスラエル
ヤコブの家=イスラエルの民
イスラエル十二部族はやがて、ダビデ王、ソロモン王の時代に統一王国を作りますが、ソロモンが亡くなると、南のユダ続のユダ王国と、北のそれ以外の部族のイスラエル王国に分裂します。
それから、まもなくアッシリアが攻めて来て、北のイスラエルは滅亡し、ユダ族だけが残った。
ユダ族の人(ユダヤ人)と、イスラエルの民とは、同じ意味になったのです。
P63
モーセ(Moses)
モーセは最も偉大な預言者です
旧約聖書の最初の5つの書物を、モーセ五書といいます。5つともモーセが著したと考えられ、律法の書(トーラー)といいい、ユダヤ教ではもっとも重視するのです。
P69
十戒(ten commandments)
十戒は、モーセがシナイ山で受け取った、神ヤハウェの掟です。
サムソンとデリラ
ダビデ/ソロモン(David/Solomon)
預言者(Prophet)
一神教になくてはならないのが、預言者です。
預言者はGodの声を聞く人のこと。誰であってもかまいません。旧約聖書の預言者は全部で100人ほどにもなります。
新約聖書の重要な預言者は、洗礼者ヨハネです。
P93
苦しみ(suffering)
苦しみが与えれれるとき、神も、その苦しみをともに苦しみます。
この世界が不完全でも、苦しみや悲しみがあっても、それを乗り越えて生きるように、人間は造られています。
P110
神(God)
キリスト教のほかに、ユダヤ教も、イスラム教も、たった一人しかいない神、を信じる一神教です。
しかも、とても大事なことですが、
キリスト教の神(God)=ユダヤ教の神(ヤハウェ)=イスラム教の神(アッラー)、なのです。
この三つが同じ神だということは、イスラム教の聖典(コーラン)にはっきり書いてあり、キリスト教徒やユダヤ教徒もこのことを認識しています。
アッラーも名前ではなく、アラビア語で「神」という意味。
ヤハウェも厳密には名前ではなく、しいて英語になおすと「being」にあたり、、「生きている」「存在する」「永遠の」といった、神の性質を表します。
罪(sin)
洗礼者ヨハネ(John the Baptist)
洗礼者ヨハネは、荒野にいました。イザヤ書が描く、預言者の姿です。
「悔い改めよ、審きの日は近い」
ナザレのイエスも、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けています。
イエスはヨハネの弟子だったのです。
でも、それでは、キリスト教としてはちょっと具合が悪いので、あいまいになっています。
P121
愛(love)
愛こそはキリスト教。キリスト教こそは愛。愛は、一番大事な考え方です。
「愛」と漢字で書くと、元は仏教用語。ものごとに執着するという、悪い意味でした。
英語で、愛は、ラブ(love)。
神と人間の愛も、人間と人間の愛も両方、同じ言葉で表します。
けれども、新約聖書の言葉であるギリシャ語では、ラブにあたる言葉がいくつもあります。
エロス(相手に価値があるので、愛する。)
フィリア(友達なので、愛する。)
そして、アガペー(相手に価値がなくても、愛する。)
神の愛は最後の、アガペーです。
神の眼から見れば、人間なんか、価値が無い。むしろ罪があって、マイナスです。価値が無い人間を、それでも愛する。神には何の得にもならないので、無償の愛です。
神が人間を愛するのは、「無償の愛」アガペーなのです。
赦し(forgiveness)
罪があっても、罰しない。相手を責めない。あるがままに受けれる。それが赦しです。
P130
哲学は、世界を正しく理解しようとするやり方ですが、厳密に全てのことの証拠をあげようとすると、たちまち行き詰まってしまいます。
私たちの世界は、証拠があがらなくても、確実に正しい、と人々が思う事柄を多く含むのです。
宗教もそうしたもののひとつです。
「神を信じる」のは、証拠の問題ではありません。むしろ、態度というか、決断というか。生き方の問題です。
ヨーロッパ世界がそれほどにも哲学や科学を重視するのは、宗教戦争の苦い経験によるのだと思います。
キリスト教は、宗教改革の結果、カトリックとプロテスタントに分裂しました。
プロテスタントも、いくつもの教会に分かれました。同じキリスト教徒のグループが考えた方の違いから100年あまりも互いに殺し合ったのです。
それをやめることにし、教会の外、すなわち政府や自治体や企業や学校や地域社会では、宗教の話をしない。
人々の合意をうるにいは、哲学や科学をもとに、証拠に基づいた議論で相手を説得する。
こういうルールになったのです。
こうして、政府と教会が分離し、(政教分離)、企業や学校や地域社会は宗教と無関係な世俗の空間ということになりました。
以上はキリスト教の特徴です。
これに対してイスラム教は、
いくも教会があるわけでもないし、宗教戦争による殺し合いもなかったので、宗教と、法律や哲学とは、きれいに分離していません。社会全体が宗教にどっぷりつかった状態です。
神(アッラー)がいるのは当たり前ですから、人々はそのことに証拠を求めたりしません。
神(god)がいるのは当たり前だと、大勢の人々が思っている点は、キリスト教も同じです。そういう人々は、教会に行きます。
けれども、哲学や科学をやろうとか、それを大学で教えようという人々は、教会とは関係ないふりをしていたり、教会と関係ないのを自慢したりします。
そういう人々を、日本の知識人はお手本にしてきたのです。
ここまでの話をまとめましょう。
「証拠がある」ことにこだわってものを考えていっても、自分がなぜ存在するのかとか、世界はどうしてこのようなのかといった、根本的な疑問は解決しないのです。
哲学や科学では、人間のいちばん大事な疑問に答えることができません。
そうなら、答えが分からなくてもいいや、と思って生きていくか、
それとも、
自分なりの答えがあったことにしよう、と思って生きていくか、
どちらかなのです。
アメリカで様々な教会を見学していたとき、ある牧師さんはこう言いました。人間は二種類いる。全ては当たり前のように起こっていると思う人と、全ては奇蹟として起こっていると思う人だ、と。
後者が「神を信じる」ことだと思います。
P157
死(death)
聖書では、動物と人間に、生命があると考えます。
鼻で、息をしているからです。
この息(生命の息吹)を、神はアダムに吹き入れました。
最後の息が神のもとに帰っていくと、人は死にます。
死ねば、もとの材料である、土に戻ります。
死は、このように、息がなくなることなので、死んだあとの「霊魂」は、ありません。
死者がおもむく「死者の国」もありません。
これが、旧約聖書をつくったイスラエルの人々の考え方でした。
キリスト教は、復活の考え方をユダヤ教から受け継ぎました。イエス・キリストは復活しました。
人間も、やがて全員が復活すると考えます。
新約聖書は、人間が復活することを前提に、すべての話が書いてあります。
復活(resurrection)
復活とは文字通りに死者が生き返ること。「肉体が死んでも魂が永遠に生きる」ではありません。
それはギリシャ人の考え方です。
そうではなくて、再び肉体が与えられて、その人がまた生きる。これほど驚くべきGODの奇蹟はない。
ところで、旧約聖書には復活はほとんど描かれていません。ユダヤ教徒は、少なくともイエスの時代に近くなるまで、復活を信じていなかったのです。人間は死ねば、土に還ると考えていました。
P184
権威(authority)
キリスト教の特徴は、教会と政府(王様)が、直接関係ないことです。
これは、キリスト教が始まった当時の、歴史と関係があります。
キリスト教は、ヘレニズム世界に信者を増やしていきました。
ヘレニズム世界とはローマ帝国が支配する地中海のことです。
ギリシャ語が共通語でした。(ギリシャ人のことをヘレネスと言いました)。
だから、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。
ローマ帝国ははじめはキリスト教を危険視しました
最後の審判(the last judgement)
やがてこの世は、終わりの日を迎えます。
その日には、生きている人間も、死んだ人間もすべての人間が審判を受けます。
https://www.bible.com/ja/versions/68-gnt-good-news-translation
P30
バイブルはもともと、本(ビブロ)の意味。本と言えば、聖書のことでした。
キリスト教の聖書は、旧約聖書(old Testment)、新約聖書(New Testment)
二冊あります。
ちなみにTestementとは、契約という意味です。
ユダヤ教の聖書は、旧約聖書。なのですが、これはキリスト教の言い方なので、ユダヤ教ではタナハ(Tanakh)といいます。
旧約聖書は、ヘブライ語。新約聖書はギリシャ語。
タナハ(旧約聖書)が現在の形に固まったのは、一世紀末のユダヤ教ラビたちの会議です。キリスト教会は、それをそっくり、旧約聖書にしました。
新約聖書は、イエス・キリスト以後の、キリスト教徒だけの聖書。
P52
アブラハム(Abraham)
アブラハムは、ノアの息子セムの十代目の子孫。最初アブラムという名前で、ユーフラテス川下流の、ウルという大都市に父と一緒に住んでいました。
P57
イスラエル(Israel)
イスラエルはもともと人間の名前です。
アブラハムの息子がイサク。イサクの息子がエサウとヤコブの兄弟です。
イスラエルとは、エル(神)と争う、の意味。ヤコブは神からイスラエルと呼ばれると言われた。
ヤコブ=イスラエル
ヤコブの家=イスラエルの民
イスラエル十二部族はやがて、ダビデ王、ソロモン王の時代に統一王国を作りますが、ソロモンが亡くなると、南のユダ続のユダ王国と、北のそれ以外の部族のイスラエル王国に分裂します。
それから、まもなくアッシリアが攻めて来て、北のイスラエルは滅亡し、ユダ族だけが残った。
ユダ族の人(ユダヤ人)と、イスラエルの民とは、同じ意味になったのです。
P63
モーセ(Moses)
モーセは最も偉大な預言者です
旧約聖書の最初の5つの書物を、モーセ五書といいます。5つともモーセが著したと考えられ、律法の書(トーラー)といいい、ユダヤ教ではもっとも重視するのです。
P69
十戒(ten commandments)
十戒は、モーセがシナイ山で受け取った、神ヤハウェの掟です。
サムソンとデリラ
ダビデ/ソロモン(David/Solomon)
預言者(Prophet)
一神教になくてはならないのが、預言者です。
預言者はGodの声を聞く人のこと。誰であってもかまいません。旧約聖書の預言者は全部で100人ほどにもなります。
新約聖書の重要な預言者は、洗礼者ヨハネです。
P93
苦しみ(suffering)
苦しみが与えれれるとき、神も、その苦しみをともに苦しみます。
この世界が不完全でも、苦しみや悲しみがあっても、それを乗り越えて生きるように、人間は造られています。
P110
神(God)
キリスト教のほかに、ユダヤ教も、イスラム教も、たった一人しかいない神、を信じる一神教です。
しかも、とても大事なことですが、
キリスト教の神(God)=ユダヤ教の神(ヤハウェ)=イスラム教の神(アッラー)、なのです。
この三つが同じ神だということは、イスラム教の聖典(コーラン)にはっきり書いてあり、キリスト教徒やユダヤ教徒もこのことを認識しています。
アッラーも名前ではなく、アラビア語で「神」という意味。
ヤハウェも厳密には名前ではなく、しいて英語になおすと「being」にあたり、、「生きている」「存在する」「永遠の」といった、神の性質を表します。
罪(sin)
洗礼者ヨハネ(John the Baptist)
洗礼者ヨハネは、荒野にいました。イザヤ書が描く、預言者の姿です。
「悔い改めよ、審きの日は近い」
ナザレのイエスも、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けています。
イエスはヨハネの弟子だったのです。
でも、それでは、キリスト教としてはちょっと具合が悪いので、あいまいになっています。
P121
愛(love)
愛こそはキリスト教。キリスト教こそは愛。愛は、一番大事な考え方です。
「愛」と漢字で書くと、元は仏教用語。ものごとに執着するという、悪い意味でした。
英語で、愛は、ラブ(love)。
神と人間の愛も、人間と人間の愛も両方、同じ言葉で表します。
けれども、新約聖書の言葉であるギリシャ語では、ラブにあたる言葉がいくつもあります。
エロス(相手に価値があるので、愛する。)
フィリア(友達なので、愛する。)
そして、アガペー(相手に価値がなくても、愛する。)
神の愛は最後の、アガペーです。
神の眼から見れば、人間なんか、価値が無い。むしろ罪があって、マイナスです。価値が無い人間を、それでも愛する。神には何の得にもならないので、無償の愛です。
神が人間を愛するのは、「無償の愛」アガペーなのです。
赦し(forgiveness)
罪があっても、罰しない。相手を責めない。あるがままに受けれる。それが赦しです。
P130
哲学は、世界を正しく理解しようとするやり方ですが、厳密に全てのことの証拠をあげようとすると、たちまち行き詰まってしまいます。
私たちの世界は、証拠があがらなくても、確実に正しい、と人々が思う事柄を多く含むのです。
宗教もそうしたもののひとつです。
「神を信じる」のは、証拠の問題ではありません。むしろ、態度というか、決断というか。生き方の問題です。
ヨーロッパ世界がそれほどにも哲学や科学を重視するのは、宗教戦争の苦い経験によるのだと思います。
キリスト教は、宗教改革の結果、カトリックとプロテスタントに分裂しました。
プロテスタントも、いくつもの教会に分かれました。同じキリスト教徒のグループが考えた方の違いから100年あまりも互いに殺し合ったのです。
それをやめることにし、教会の外、すなわち政府や自治体や企業や学校や地域社会では、宗教の話をしない。
人々の合意をうるにいは、哲学や科学をもとに、証拠に基づいた議論で相手を説得する。
こういうルールになったのです。
こうして、政府と教会が分離し、(政教分離)、企業や学校や地域社会は宗教と無関係な世俗の空間ということになりました。
以上はキリスト教の特徴です。
これに対してイスラム教は、
いくも教会があるわけでもないし、宗教戦争による殺し合いもなかったので、宗教と、法律や哲学とは、きれいに分離していません。社会全体が宗教にどっぷりつかった状態です。
神(アッラー)がいるのは当たり前ですから、人々はそのことに証拠を求めたりしません。
神(god)がいるのは当たり前だと、大勢の人々が思っている点は、キリスト教も同じです。そういう人々は、教会に行きます。
けれども、哲学や科学をやろうとか、それを大学で教えようという人々は、教会とは関係ないふりをしていたり、教会と関係ないのを自慢したりします。
そういう人々を、日本の知識人はお手本にしてきたのです。
ここまでの話をまとめましょう。
「証拠がある」ことにこだわってものを考えていっても、自分がなぜ存在するのかとか、世界はどうしてこのようなのかといった、根本的な疑問は解決しないのです。
哲学や科学では、人間のいちばん大事な疑問に答えることができません。
そうなら、答えが分からなくてもいいや、と思って生きていくか、
それとも、
自分なりの答えがあったことにしよう、と思って生きていくか、
どちらかなのです。
アメリカで様々な教会を見学していたとき、ある牧師さんはこう言いました。人間は二種類いる。全ては当たり前のように起こっていると思う人と、全ては奇蹟として起こっていると思う人だ、と。
後者が「神を信じる」ことだと思います。
P157
死(death)
聖書では、動物と人間に、生命があると考えます。
鼻で、息をしているからです。
この息(生命の息吹)を、神はアダムに吹き入れました。
最後の息が神のもとに帰っていくと、人は死にます。
死ねば、もとの材料である、土に戻ります。
死は、このように、息がなくなることなので、死んだあとの「霊魂」は、ありません。
死者がおもむく「死者の国」もありません。
これが、旧約聖書をつくったイスラエルの人々の考え方でした。
キリスト教は、復活の考え方をユダヤ教から受け継ぎました。イエス・キリストは復活しました。
人間も、やがて全員が復活すると考えます。
新約聖書は、人間が復活することを前提に、すべての話が書いてあります。
復活(resurrection)
復活とは文字通りに死者が生き返ること。「肉体が死んでも魂が永遠に生きる」ではありません。
それはギリシャ人の考え方です。
そうではなくて、再び肉体が与えられて、その人がまた生きる。これほど驚くべきGODの奇蹟はない。
ところで、旧約聖書には復活はほとんど描かれていません。ユダヤ教徒は、少なくともイエスの時代に近くなるまで、復活を信じていなかったのです。人間は死ねば、土に還ると考えていました。
P184
権威(authority)
キリスト教の特徴は、教会と政府(王様)が、直接関係ないことです。
これは、キリスト教が始まった当時の、歴史と関係があります。
キリスト教は、ヘレニズム世界に信者を増やしていきました。
ヘレニズム世界とはローマ帝国が支配する地中海のことです。
ギリシャ語が共通語でした。(ギリシャ人のことをヘレネスと言いました)。
だから、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。
ローマ帝国ははじめはキリスト教を危険視しました
最後の審判(the last judgement)
やがてこの世は、終わりの日を迎えます。
その日には、生きている人間も、死んだ人間もすべての人間が審判を受けます。
https://www.bible.com/ja/versions/68-gnt-good-news-translation
Good News Translation (GNT)
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Good News Translation (US Version)
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