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2017年12月19日火曜日

投稿日 2017年12月19日火曜日

読みかじり - 真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書) 新書 – 2016/11/30 佐々木 閑 (著),‎ 大栗 博司 (著)

P14
人には生まれながらにして偏見、先入観が刷り込まれている。
苦しみから逃れるためには、自力で偏見のフィルターを取り去って、世界を正しく見なければいけません。
それが、仏教の第一の目的です。

「宇宙の真ん中に自分がいる」という思い込み

同じ根を持つキリスト教とイスラム教をひとまとまりに考え、
仏教は、神や外界の超越者の存在を認めない独特の世界観を持つ宗教。



P51

宇宙空間は曲面ではなく、真っ平ら。
CMB(COSMIC MICROWAVE BACKGROUND RADIATION)の観測によって、宇宙空間が「平坦」、つまり真っ平らであることも分かりました。

P57
仏教では、時間は無限の過去から無限の未来へ止まることなく続くと考えます。その時間の流れの中で、私たちは永遠に輪廻を繰り返す。
輪廻から離脱して涅槃に入ることを「解脱」と言いますが、これは時間の枠組みの外へ出ることにほかなりません。
涅槃では時間が「止まる」のではなく、時間という概念自体が存在しないのです。
ちなみに、時間の流れる世界のことを仏教では「有為」と言うんですね。


P78
釈迦は、大変斬新な宗教概念を作り上げました。
絶対者のいない宗教世界です。
例えば、キリスト教やイスラム教の場合、
この世には最初から神という絶対者が存在しており、神との契約によって、私たちの人生の幸、不幸が決められると考えます。そして神の言葉を伝える伝達者として遣わされたのが、キリストやムハマンドです。
彼らは神の教えを私たちに伝えてはくれますが、彼ら自身が、その宗教の原理をつくったわけではない。
これに対して、仏教は、そういった神のような普遍的存在を想定しない宗教です。

P86

仏教とはそもそも何か

「仏、法、僧」の三宝と三つの基本理念

「仏」は仏陀。大乗仏教では阿弥陀様や薬師様などいろいろ出てくるが、もともとはお釈迦様のこと。

「法」は世界の法則性を正しく理解し、その中で確実に煩悩を消していくための教え

「僧」はサンガ(僧伽)というインド語で、これは集団と言う意味。
出家したお坊さんがつくる修行集団のこと

仏教という宗教は、本質的に組織宗教。

三つの理念

①超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明すること
②努力の領域を肉体ではなく、精神に限定すること。
③修行のシステムとして、出家者による集団生活体制(サンガ)をとり、一般社会の余りものをもらうことによって生計を立てること。

P109

サンガ抜きの大乗仏教という日本仏教の特殊な形



真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書) 新書 – 2016/11/30

2017年4月4日火曜日

投稿日 2017年4月4日火曜日

読みかじり - 東洋哲学 最初に「悟り」あり。テーマは「我」。論理よりも体験を重んじる哲学 - プレジデント(05DEC17)

P30より抜粋

ー 東洋哲学と西洋哲学の違いって何ですか?


大きく異なるのは、真理に対する前提ですね。

誰もが無知で、真理を分かっていないと考えるのが西洋哲学。

そこで「これが真理なのでは?」「いや違うだろう」と議論を重ねて、先人の主張を壊し、また組み立て、何千年かけてバージョンアップさせていく。究極の真理に近づくため、意見を積み重ねる(階段型)と言っていいでしょう。


対して、東洋哲学は、

最初から「はーい。私、真理が全部わかっちゃいました~」という人が現れます。

ー いきなりゴールに到達!

彼らが悟った真理は絶対で、それ以上はありません。
でも、開祖が亡くなると、「あの発言はこんな意味だったのでは?」とやはり議論が始まり、多様な解釈が広がっていく。

東洋哲学は開祖を頂点にした「ピラミッド型」なんです。


またテーマも異なります。

「世界の根源は何か」
「世界を客観的に正しく認識するにはどうすればいいか」

と、西洋哲学は関心が外側に向かう。

でも東洋哲学では世界はどうでもよくて、関心が向かうのは人間の内側。
自己探求であり、「私って何だろう」なんです。

●西洋は真理を「知る」「理解する」のですが、東洋は「悟る」。

「悟る」は、知識として知っただけではダメ。
体験が必要なんです。
滝に打たれるなり苦行するなり、強烈な体験をして「わかったぞー!」というリアルな実感があって、本当にわかったと認められる。

でも論理は人に伝達できても、体験は伝達できないから、絶望的な戦いなんです。

開祖が屋根に屋根に上って、この世で誰も見たことのない景色を見たのだとしたら、信徒たちはその屋根に上るしかない。

その景色を見る体験が重要であって、上る手段はハシゴだろうが階段だろうが、何だっていい。

そこで後世の弟子が創意工夫して編み出したのが、体験的な理解を発生させるための手段、いわゆる「方便」です。

「念仏」「坐禅」「瞑想」だったり、時には「なぞなぞに答えなさい」だったり。

なぞなぞは禅の公案のことで、別に開祖はなぞなぞのナの字も示してはいない。

そした方便の違いが宗派の違いになって枝分かれしていきます。

一方、西洋哲学は体験を必用としません。真理を知ったという人は、言葉と理屈を尽くして説明できればOK。

結果、

西洋哲学は偉い学者の集まりに、東洋哲学は宗教に転じやすい。

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・日本人の思考ベースになっている仏教と儒教が日本に伝わるまでの概略。。。。


まず、東洋哲学の機嫌から。

紀元前800年ころ、今のイランにいたアーリア人がインドを侵略し、「祭祀、王族、庶民、奴隷」という階級制度を作りだします。

当然、自分たちは祭司になるんですけど、偉い人は大体ヒマなので、小難しいことを思索しだしたのが、東洋哲学の始まりと言われています。

そして、アーリア人は「究極の真理に到達できるのは偉大な祭司だけ」とうい物語を後付でつくって、国を支配していました。

しかし、ヤージュニャヴァルキヤという哲人が、階級制度なんて嘘っぱちだと見抜いたことで、祭司以外の人も「究極の真理に到達したい!」と自己探求を始めます。
それが、インドを席巻する大ブームになり、そこに乗っかったのが、仏教の開祖・釈迦です。

釈迦はゼロの状態からオリジナルで全てを悟ったわけではなく、出家した後で悟りの境地にたどりつきます。

そして、仏教の基礎となる教義・四諦と八正道を悟りました。

釈迦のカリスマ性によって、仏教はバラモン教をしのぐインド最大の宗教に発展していくのですが、やがて釈迦も食あたりで80歳で死にます。


さきほどのように、

開祖を失った組織は、解釈をめぐって次第にギスギスしてきます。

そして、釈迦の死後100年、今でいうところの、大乗仏教と小乗仏教に分裂しました。

大衆に向けて戒律を緩くした大乗仏教は成功を収めますが、そのせいで新興宗教になりかけます。

そこに現れたのが、釈迦の哲学を理解し、さらに発展させてしまう天才・龍樹。

彼は釈迦の縁起という哲学に注目し、それを600巻以上の経典・般若経としてまとめました。
さらに262文字に凝縮した経典が「般若心経」ですね。


しかし、宗教も栄枯盛衰。やがて個性的な神さまと呪術的な儀式によって、大衆の心をがっちりつかんだヒンドゥー教にインド仏教は駆逐されていきます。

さらにインドに侵入したイスラム教徒が寺院を破壊しまくって、インドの仏教は絶えます。

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時計の針を戻すと、仏教は東へ伝播して、中国へも渡っていきます。

でも、仏教と中国の相性はよくなかった。

現世利益を好む中国人にとっては、人生を儚む仏教の考えは「はあ?何言ってるの?」ですから。

当時、中国の思考基準になっていたのは、儒教です。

紀元前500年頃、仕官を目指していた孔子が「仁と礼を大事にしなさい」と主張していたのが、始まり。(思いやりを持って、礼儀正しく生きましょう)

この教えは孔子が不遇のまま死んだ後、弟子たちによって喧伝され、やがて儒教へ発展していきます。儒教は「人生は楽しいもの」というスタンスですから、「人生は苦」を提唱する仏教とは相容れなかった。



ただ、中国には老子という先人がいたのです。

老子の哲学の根本は「道タオ」というもので、「捨てなさい」「損をしなさい」など、現世利益とは全く逆の志向です。
釈迦の教えに似ているから、「老子は晩年インドに渡って、釈迦と改名した」説もあるぐらいで?

それで、老子の哲学を学んだ道家という学派によって、仏教の研究は引き継がれていきました。

さらに、老子の死後から200年経つと、老子以上に老子の哲学を分かりやすく説く後継者・荘子が現れます。

この「老荘思想」をベースに仏教を解釈すると、2つは似通っているから非常に腑に落ちるんです。

やがて中国仏教は禅が誕生し、さらに東へと伝播し、朝鮮半島、そして538年、百済王の王から仏像と経典が伝わり、日本の仏教が始まったのです。

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