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2017年12月26日火曜日

投稿日 2017年12月26日火曜日

読みかじり - フリーメイソン 秘密結社の社会学 (小学館新書) 新書 – 2017/8/1 橋爪 大三郎

キリスト教から分かりやすく説明されている!

p20
理神論とは

「理神論」は、英語でDeism。
めったに聞かない言葉で、キリスト教に比べてもはるかになじみがない。
けれども、
この理神論こそ、近代ヨーロッパ文明を理解するキモ。
伝統的なキリスト教の信仰と自然科学が両立する接着剤。
そして、
フリーメイソンが信奉している立場なのだ。

理神論は徹底した、合理主義の一種で、世界を次のように見る。
①神(GOD)が、この世界を、創造した。
②神(GOD)が、この世界を、支配している。
③神(GOD)が、人間に、理性(reason)を与えた。
④人間は、理性を通して、神(GOD)を理解できる。




p24

神の主権

この世界(自然)を、自然法則が支配しているのか。
神は、天地を創造したあと、この世界から外に出てしまった。
神を見ることはできない。
それなら、もしかしたら、神はいないのではないか?
この世界(自然)が、自然法則に支配されているのは確かだけど、神がいる証拠はどこにもない。じゃあ、神はいなくてこの世界(モノ)があるだけではないか。
と考えるのが、唯物論者である。

でも、これだと、キリスト教の信仰を捨ててしまうことになる。
そこで理神論は、自然法則が万能であることを認めつつ、信仰に踏みとどまろうとする。

神はいる、たしかに。神は、天地を創造し終わって、この世界の外に出て行ったが、そのあとでも、この世界を支配し続けている。
この世界で何が起きているか、すべてモニターし(全知)、必要ならいつでも介入して、自然法則を停止し、思い通りの出来事を起こすことができる。(全能)

神が介入して、自然法則が停止することを、「奇蹟」という。
いつもで自然法則を停止できるのなら、自然法則どおりに出来事が起こるのも、神の意志である。
すなわち、この世界のすべての出来事は、ひとつひとつ、神の意志によって起こる。

このように、神がこの世界を支配していることを「神の主権sovereignty」という。

理神論は、神の主権を認める立場。自然法則の背後に神の意志を認める立場だ。

p30

理神論は、神がこの世界を支配している、と考える(神の主権)。
その神の意志を、人間は理性をつかって知り、理性によって神に近づく。
理性は、「人のわざ」ではなく、神が人に与えた「神のわざ」であうr。
神が人間を救う、という一神教の基本の構造はいちおう保たれている。

もっとも、理性によって人間が救われるのなら、イエス・キリストの出番はなくなってしまう。

一神教では、救うのは紙であり、救われるのは人間である。
人間は、自分で自分を救うことができない。
救うか救わないかは、神が自由に決める。
その神に、この人は救ってやってください、横から口添えすることを、「執りなし」という。
イエス・キリストは、人類の罪を背負って十字架で死んだので、執りなしができる。

カトリックは、イエス・キリストから執りなしの権限を委任されているので、やっぱり執りなしができるという。

プロテスタントは、いやいや、執りなしができるのは、イエス・キリストだけだという。

それに対して、理性によって神の意志を知ることができ、理性によって神の意志に適うように行動し、理性によって神と交流できるなら、イエス・キリストのとりなしは必要ないことになる。

理性は言うならば、イエス・キリストの代わりに、執りなしの役を果たしているのである。

イエス・キリストがいなくなった(必要なくなった)一神教は、ユダヤ教と似てくる。
理神論は、ユダヤ教とけっこうそっくりなのである。

イギリスも、フランスも、ドイツも、アメリカも世俗の社会を、理神論で仕切っている。



p90

オール・シーング・アイ

フリーメイソンの専売特許ではなく、キリスト教ではごくありふれた図柄である。
「詩編」33章18節、ほかにもどづいている。

18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。

「all seeing eye」の画像検索結果

「all seeing eye」の画像検索結果

プロビデンスの目(プロビデンスのめ、英: Eye of Providence)とは、目が描かれたキリスト教における意匠。 プロビデンスはキリスト教の摂理という意味で、神の全能の目(英: all-seeing eye of God)を意味する。 光背や、三位一体の象徴である三角形としばしば組み合わせて用いられる。

p118

フリーメイソンは教会ではない。
キリスト教を基盤にしながらも、教会とは性質の違った団体である。
キリスト教から派生した民間の任意団体である。

p128

ユニタリアンは、プロテスタントの一派。
キリスト教の、教会である。
ユニタリアンとフリーメイソンは何の関係もない。

p232

フリーメイソンは、ユダヤ人と関係ない。
むしろ最初は、ユダヤ人はフリーメイソンに参加できなかった。

ユダヤ人とは

人種ではない。
ユダヤ教を信じる宗教団体、ないし民族、と考えたほうがいい。

キリスト教が「旧約聖書」と呼ぶ書物は、もともとユダヤ教の聖典である。
ユダヤ教の歴史が書いてある。
これによれば、
天地を創造したの神はヤハウェ。
アブラハムに語りかけ、約束の地を目指すように告げた。
アブラハムはこれに従った。
約束の地(カナン=今のパレスチナ)に落ち着いた人々(イスラエルの民)は、そのあと、エジプトに移り住む。
エジプトで奴隷のような状態になっていたイスラエルの民を、再び約束に地へ導いたのが、預言者モーセだ。
民を率いた彼は砂漠を進み、シナイ山で、ヤハウェから契約を授かる。
十戒が有名だが、それ以外にも多くの命令が下され、モーセの律法の書としてまとめられている。
神との契約を、神への義務として守るのが、ユダヤ教徒だ。

モーセの後にも、多くの預言者が現れた。
ユダヤ教の聖典(タナハとよぶ)には、彼らの残した預言者も含まれている。

ユダヤ人差別の由来

ナザレのイエスは、ユダヤ人でユダヤ教徒。
すっかり体制化したユダヤ教徒の主流派を批判し、神に従うイスラエルの民の本来の姿を取り戻そうとした。
そこで当局に目をつけられ、死刑になった。

イエスは預言者のように行動した。
だがイエスは、ただの人間ではない。
神の遣わした救い主であり、神の子である。ーこう主張したのが、パウロである。
パウロの考えに従う人々が、キリスト教徒となった。
そしてキリスト教徒は、「救い主イエスを受け入れない、頑なな」ユダヤ教徒と、対立するようになった。


新約聖書には、パリサイ人(律法に厳格に従うユダヤ教徒のこと)への非難が、これでもかと記されている。
キリスト教徒は、ユダヤ教徒とともに祈ることができない。
キリスト教社会には、ユダヤ教への差別と偏見が、構造的に組み込まれているのである。

そのためユダヤ教徒は、ヨーロッパで、土地をもつことを禁じられていた。
農業ができない。
そこで、それ以外のさまざまな職業につくしかなかった。
そしておおむね、まもまって住んでいた。
やっぱりユダヤ教徒は頑なだなぁと、キリスト教とは思った。


P282
★アメリカ人が、さまざまなアソシエーション(ASSOCIATION 中間集団)を組織するのが得意なことである。

アソシエーションは、目的を達成するための、人為的な組織である。
誰かが組織をつくろうと言いだして、賛同者を集める。
目的が一番うまく達成できるように、組織を設計する。

アメリカは貴族の存在を認めない。
アメリカには市民(平民)しかいない。
ゆえに、軍隊は、市民の軍隊で、一兵卒から昇進して、将軍になることもできる。
将校と兵士の待遇に違いはあるが、身分ではなく、職能の違いによるものだ。
能力あるものが、ふさわしいポストに就く。
職能の組み合わせによって、組織ができている。
戦争に勝つことを目的にする組織、という原則が貫かれている。

軍隊だけではない。
株式会社、政府機関、大学、財団、病院、工場、スポーツチームなど、あらゆる組織が、アソシエーションの原則でできているのだ。

アメリカ社会のテーマは、いかに他者と出会うか。そして協力するか。
アソシエーションは、わかりやすく言うなら、
「他者と出会う仕組み」である。
近代社会の基本的な、社会技術と言っていいだろう。



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フリーメイソン 秘密結社の社会学 (小学館新書) 新書 – 2017/8/1


2017年4月17日月曜日

投稿日 2017年4月17日月曜日

読みかじり - 神は妄想である―宗教との決別 単行本 – 2007/5/25 リチャード・ドーキンス

分厚い本で、最後まで読めず。。。

P64

世俗主義によって建国された米国が、いまやキリスト教圏におけるもっとも宗教的な国家であるのに対して、立憲君主を首長にいただく国教会をもつ英国がもっとも宗教的でない国の一つであるというパラドックスは、これまでも指摘されてきたところだ。
それはなぜか、といつも尋ねられるがよくわからない。
思うに、、プロテスタントとカトリックが交互に主導権を握り、組織的に相手方を大量に殺すという、宗教間の暴力の戦慄すべき歴史が繰り返された後、宗教にうんざりしてしまったということはあるかもしれない。
もう一つの説としては、
アメリカが移民の国だという考察に由来するものがある。
同僚の一人が私に、ヨーロッパに見られる大規模な、いわゆる「拡大家族」の安定と安楽から切り離された移民たちは、教会を異境の地における一種の代理親族として受け入れたのではないかと指摘してくれた。
面白いアイディアでさらに研究してみる価値がある。
多くのアメリカ人が自分の地域の教会を自分のよりどころを与えるまとまりとしてみなしているのは疑いがなく、実際に教会は拡大家族と呼ぶにふさわしい属性をいくつももっているのである。

しかし、もう一つ、アメリカ人の宗教性は逆説的なことに、その憲法の世俗主義に由来するという仮説がある。
厳密には、アメリカは法的に世俗主義であり、宗教は自由企業になっている。ライバル宗教は信徒ーことに彼らがもたらすたっぷり超えた十分の一税ーをめぐって競い合い、この競争は、市場における攻撃的で強引な売り込みのありとあらゆる手管をもっておこなわれる。。。。。

p141

19世紀以来、
学術的な神学研究者たちは、
「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」という決定的な論証をおこなってきた。
すべてはイエスが死んでからずっと後になって書かれたものであり、
パウロの手紙よりも後であるが、
この手紙には、、イエスの生涯にあったとされている事実のほとんど何ひとつとして触れられていない。
すべてはその後に、多数の異なる「伝言ゲーム世代」を通じて、いずれにせよ自らの宗教的大儀を持ち、誤りを犯しがちな筆写者たちによって、何度となく繰り返し書き写されてきたものである。
・・・・・


神は妄想である―宗教との決別 単行本 – 2007/5/25

2016年5月8日日曜日

投稿日 2016年5月8日日曜日

読みかじり - はじめての聖書 (14歳の世渡り術) 単行本 – 2014/12/19 橋爪 大三郎

はじめての聖書 (14歳の世渡り術) 単行本 – 2014/12/19

商品の詳細


P30

バイブルはもともと、本(ビブロ)の意味。本と言えば、聖書のことでした。

キリスト教の聖書は、旧約聖書(old Testment)、新約聖書(New Testment)
二冊あります。
ちなみにTestementとは、契約という意味です。

ユダヤ教の聖書は、旧約聖書。なのですが、これはキリスト教の言い方なので、ユダヤ教ではタナハ(Tanakh)といいます。

旧約聖書は、ヘブライ語。新約聖書はギリシャ語。

タナハ(旧約聖書)が現在の形に固まったのは、一世紀末のユダヤ教ラビたちの会議です。キリスト教会は、それをそっくり、旧約聖書にしました。

新約聖書は、イエス・キリスト以後の、キリスト教徒だけの聖書。

P52

アブラハム(Abraham)
アブラハムは、ノアの息子セムの十代目の子孫。最初アブラムという名前で、ユーフラテス川下流の、ウルという大都市に父と一緒に住んでいました。

P57

イスラエル(Israel)
イスラエルはもともと人間の名前です。
アブラハムの息子がイサク。イサクの息子がエサウとヤコブの兄弟です。

イスラエルとは、エル(神)と争う、の意味。ヤコブは神からイスラエルと呼ばれると言われた。
ヤコブ=イスラエル

ヤコブの家=イスラエルの民

イスラエル十二部族はやがて、ダビデ王、ソロモン王の時代に統一王国を作りますが、ソロモンが亡くなると、南のユダ続のユダ王国と、北のそれ以外の部族のイスラエル王国に分裂します。
それから、まもなくアッシリアが攻めて来て、北のイスラエルは滅亡し、ユダ族だけが残った。
ユダ族の人(ユダヤ人)と、イスラエルの民とは、同じ意味になったのです。

P63

モーセ(Moses)

モーセは最も偉大な預言者です

旧約聖書の最初の5つの書物を、モーセ五書といいます。5つともモーセが著したと考えられ、律法の書(トーラー)といいい、ユダヤ教ではもっとも重視するのです。

P69

十戒(ten commandments)

十戒は、モーセがシナイ山で受け取った、神ヤハウェの掟です。



サムソンとデリラ


ダビデ/ソロモン(David/Solomon)


預言者(Prophet)

一神教になくてはならないのが、預言者です。

預言者はGodの声を聞く人のこと。誰であってもかまいません。旧約聖書の預言者は全部で100人ほどにもなります。

新約聖書の重要な預言者は、洗礼者ヨハネです。


P93

苦しみ(suffering)

苦しみが与えれれるとき、神も、その苦しみをともに苦しみます。

この世界が不完全でも、苦しみや悲しみがあっても、それを乗り越えて生きるように、人間は造られています。

P110

神(God)

キリスト教のほかに、ユダヤ教も、イスラム教も、たった一人しかいない神、を信じる一神教です。

しかも、とても大事なことですが、

キリスト教の神(God)=ユダヤ教の神(ヤハウェ)=イスラム教の神(アッラー)、なのです。

この三つが同じ神だということは、イスラム教の聖典(コーラン)にはっきり書いてあり、キリスト教徒やユダヤ教徒もこのことを認識しています。

アッラーも名前ではなく、アラビア語で「神」という意味。
ヤハウェも厳密には名前ではなく、しいて英語になおすと「being」にあたり、、「生きている」「存在する」「永遠の」といった、神の性質を表します。

罪(sin)


洗礼者ヨハネ(John the Baptist)

洗礼者ヨハネは、荒野にいました。イザヤ書が描く、預言者の姿です。
「悔い改めよ、審きの日は近い」

ナザレのイエスも、洗礼者ヨハネから、洗礼を受けています。

イエスはヨハネの弟子だったのです。

でも、それでは、キリスト教としてはちょっと具合が悪いので、あいまいになっています。

P121

愛(love)

愛こそはキリスト教。キリスト教こそは愛。愛は、一番大事な考え方です。

「愛」と漢字で書くと、元は仏教用語。ものごとに執着するという、悪い意味でした。

英語で、愛は、ラブ(love)。
神と人間の愛も、人間と人間の愛も両方、同じ言葉で表します。

けれども、新約聖書の言葉であるギリシャ語では、ラブにあたる言葉がいくつもあります。

エロス(相手に価値があるので、愛する。)
フィリア(友達なので、愛する。)
そして、アガペー(相手に価値がなくても、愛する。)

神の愛は最後の、アガペーです。

神の眼から見れば、人間なんか、価値が無い。むしろ罪があって、マイナスです。価値が無い人間を、それでも愛する。神には何の得にもならないので、無償の愛です。
神が人間を愛するのは、「無償の愛」アガペーなのです。

赦し(forgiveness)

罪があっても、罰しない。相手を責めない。あるがままに受けれる。それが赦しです。

 

P130

哲学は、世界を正しく理解しようとするやり方ですが、厳密に全てのことの証拠をあげようとすると、たちまち行き詰まってしまいます。
私たちの世界は、証拠があがらなくても、確実に正しい、と人々が思う事柄を多く含むのです。

宗教もそうしたもののひとつです。

「神を信じる」のは、証拠の問題ではありません。むしろ、態度というか、決断というか。生き方の問題です。

ヨーロッパ世界がそれほどにも哲学や科学を重視するのは、宗教戦争の苦い経験によるのだと思います。

キリスト教は、宗教改革の結果、カトリックとプロテスタントに分裂しました。

プロテスタントも、いくつもの教会に分かれました。同じキリスト教徒のグループが考えた方の違いから100年あまりも互いに殺し合ったのです。
それをやめることにし、教会の外、すなわち政府や自治体や企業や学校や地域社会では、宗教の話をしない。
人々の合意をうるにいは、哲学や科学をもとに、証拠に基づいた議論で相手を説得する。
こういうルールになったのです。
こうして、政府と教会が分離し、(政教分離)、企業や学校や地域社会は宗教と無関係な世俗の空間ということになりました。

以上はキリスト教の特徴です。


これに対してイスラム教は、

いくも教会があるわけでもないし、宗教戦争による殺し合いもなかったので、宗教と、法律や哲学とは、きれいに分離していません。社会全体が宗教にどっぷりつかった状態です。
神(アッラー)がいるのは当たり前ですから、人々はそのことに証拠を求めたりしません。

神(god)がいるのは当たり前だと、大勢の人々が思っている点は、キリスト教も同じです。そういう人々は、教会に行きます。
けれども、哲学や科学をやろうとか、それを大学で教えようという人々は、教会とは関係ないふりをしていたり、教会と関係ないのを自慢したりします。
そういう人々を、日本の知識人はお手本にしてきたのです。

ここまでの話をまとめましょう。

「証拠がある」ことにこだわってものを考えていっても、自分がなぜ存在するのかとか、世界はどうしてこのようなのかといった、根本的な疑問は解決しないのです。

哲学や科学では、人間のいちばん大事な疑問に答えることができません。

そうなら、答えが分からなくてもいいや、と思って生きていくか、

それとも、

自分なりの答えがあったことにしよう、と思って生きていくか、

どちらかなのです。


アメリカで様々な教会を見学していたとき、ある牧師さんはこう言いました。人間は二種類いる。全ては当たり前のように起こっていると思う人と、全ては奇蹟として起こっていると思う人だ、と。

後者が「神を信じる」ことだと思います。



P157

死(death)

聖書では、動物と人間に、生命があると考えます。

鼻で、息をしているからです。

この息(生命の息吹)を、神はアダムに吹き入れました。

最後の息が神のもとに帰っていくと、人は死にます。

死ねば、もとの材料である、土に戻ります。

死は、このように、息がなくなることなので、死んだあとの「霊魂」は、ありません。

死者がおもむく「死者の国」もありません。

これが、旧約聖書をつくったイスラエルの人々の考え方でした。



キリスト教は、復活の考え方をユダヤ教から受け継ぎました。イエス・キリストは復活しました。
人間も、やがて全員が復活すると考えます。

新約聖書は、人間が復活することを前提に、すべての話が書いてあります。

復活(resurrection)

復活とは文字通りに死者が生き返ること。「肉体が死んでも魂が永遠に生きる」ではありません。
それはギリシャ人の考え方です。
そうではなくて、再び肉体が与えられて、その人がまた生きる。これほど驚くべきGODの奇蹟はない。


ところで、旧約聖書には復活はほとんど描かれていません。ユダヤ教徒は、少なくともイエスの時代に近くなるまで、復活を信じていなかったのです。人間は死ねば、土に還ると考えていました。


P184
権威(authority)

キリスト教の特徴は、教会と政府(王様)が、直接関係ないことです。

これは、キリスト教が始まった当時の、歴史と関係があります。

キリスト教は、ヘレニズム世界に信者を増やしていきました。

ヘレニズム世界とはローマ帝国が支配する地中海のことです。

ギリシャ語が共通語でした。(ギリシャ人のことをヘレネスと言いました)。
だから、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。

ローマ帝国ははじめはキリスト教を危険視しました


最後の審判(the last judgement)


やがてこの世は、終わりの日を迎えます。

その日には、生きている人間も、死んだ人間もすべての人間が審判を受けます。






https://www.bible.com/ja/versions/68-gnt-good-news-translation

Good News Translation (GNT)

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