理解しやすいので抜粋。
「パレスチナ」は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの宗教の聖地「エルサレム」を擁する。
明確な境界はないが、現代のイスラエルを中心に、シリア、レバノンなどにかかる一帯を指したという。
呼称は古く、紀元前13世紀から紀元前12世紀頃にこの地に来たといわれるペリシテ人の地を意味する。
紀元前5世紀にヘロドトス人が書いた「歴史」では、フェニキア人がシリア海岸沿いに移り、その地をパレスチナと呼ぶと記された。
パレスチナと3つの宗教の関係は、聖書の「創世記」に端を発する。
神はアブラハムと子孫にカナンの地を与え、子孫の繁栄を約束した。
このカナンという場所がパレスチナに相当。
紀元前997年頃にダビデ王が掌握し、イスラエル国家が誕生した。
次のソロモン王は十戒の石板を納めた「契約の箱」を安置する神殿を建造(第一神殿)。
しかし新バビロニアが神殿を破壊、再建を果たすも(第2神殿)、今度はローマ軍が破壊。
132年、第2次ユダヤ戦争に破れ、ユダヤ人はエルサレムへの出入りを禁止された。
ここからユダヤ民族の離散(ディアスポラ)が始まる。
次にキリスト教においては、
パレスチナはイエスが生まれ、布教を始めた場所であった。
特にエルサレムはイエス・キリストの死と復活の場所として重要な聖地と位置付けられた。
パレスチナはローマ帝国、ついでビザンツ帝国が支配。
638年、エルサレムがイスラムの勢力下におかれた。
予言者ムハンマドが昇天の際に足跡を残したという聖岩を囲む「岩のドーム」をユダヤ教の神殿の跡に建設。
聖岩はアブラハムの「イサクの犠牲」の場となったモリヤの岩と同じとされた。
この頃は、他宗教も認められキリスト教徒、アルメニア人、ユダヤ人も居住区をつくった。
しかし、1099年に十字軍が占領。
キリスト教徒も含め住人は虐殺される。
12世紀からは、アイユーブ朝、マムルーク朝、オスマン朝とイスラム教徒の統治が続いた。
だが、このお間、ユダヤ教やキリスト教徒も暮らしていた。
19世紀に入ると反ユダヤ主義が台頭、ロシアでユダヤ人が大量虐殺された(ポグロム)。
これを機に、ユダヤ人は故地シオンの丘に帰還して国家を再建するべきだとういシオニズム運動が起こる。
シオンとは、神殿の丘でありエルサレムであった。
のちの混乱の火種となった、イギリスの三枚舌外交。
1914年、第一次世界大戦が勃発。
この大戦中のイギリスの外交政策が、混乱の火種となる。
まずイギリスはメッカのシャリフにオスマン帝国と戦えばアラブ独立国家を樹立すると約束(フセイン=マクホン協定)。
次にフランスと、オスマン帝国領の地域を戦後、英仏で分割すると取り決めを交わし、3つめにユダヤ人のナショナルホームの設立を表明(バルフォア宣言)。
これが「三枚舌外交」である。
オスマン帝国の敗北後、1920年にパレスチナはイギリスの委任統治下に。
ユダヤ人移民に、多数派のアラブの住人が反発した。
第二次大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストで約600万人ものユダヤ人が虐殺される。
47年国連はパレスチナ分割決議を採択。
48年イスラエルが建国されるが、周辺アラブ諸国との紛争が勃発、アラブ側の難民が生じた。
エルサレムは分断され、ヨルダンと新国家イスラエルの二国の支配下に。
67年の第三次中東戦争でイスラエルはエルサレムを併合する。
その後、93年にイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)はオスロで相互承認を行い、ガザと西岸地区でパレスチナ人の自治が実現する。
しかし双方の緊張関係は続き和平交渉は中断された。
2002年、イスラエルはテロから自衛を名目に分離壁の建設を始める。
11年にパレスチナは国連加盟を申請。
翌年国連でパレスチナをオブザーバー国家とする決議が通り、国連では国家とされることとなった。
混迷するパレスチナ問題 - それはこの地が3宗教とひもづき、戦争や政治に翻弄されたためである。簡単に解決できない背景を認識しよう。そこに生きる人々の、生活と歴史をふまえた視座が求められている。
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