国ってなんだろう?: あなたと考えたい「私と国」の関係 (中学生の質問箱) 単行本 – 2016/2/19
中学生向けだが、大人にも大変わかりやすい!
P4
国の構成員が「国民」。この国のあり方を「国民国家」と呼ぶ。
P16
国民国家はいつ始まったか?
18世紀末のフランス革命とその後の変化で形作られた。
大きく影響したのが、人権宣言(人間と市民の権利の宣言)
絶対王政のもとでは、王族、貴族、聖職者などの特権階級以外の「第三身分」と呼ばれた「平民」は政治に参加できなかった。
人権宣言により、平民が政治に参加できる権利、市民権、国民主権という考え方が打ち出された。
以前はフランスに住んでいる人が自分は「フランス人」と思っていなかった。
もう一つの大きな役割が「国語」
「国語」は国によって定められた、その国全体に共通する言語です。
フランス革命時、フランス語を話せたひとは10%あまりだったとも、半分だったとも言われている。
P34
「国民国家」がホロコーストを導いたか?
▲ヨーロッパにはキリスト教徒だけが住むことができるというのがレコンキスタの考え方
15世紀末、レコンキスタ完了後、イベリア半島から追放されたムスリムはオスマン帝国などイスラーム圏に行けたが、ユダヤ教徒はそういう場所がなく、集団でキリスト教に改宗する人が多かった。
ユダヤ教徒とキリスト教徒の違いは、金曜日夜にシナゴーク(ユダヤ教の礼拝所)に行くのか、日曜日に教会に行くのかという習慣によって見分けることが出来ますが、キリスト教に改宗したユダヤ教徒は区別がつきません。
キリスト教の「旧約聖書」はユダヤ教の聖典ですから、それに由来する名前なら共通するものも多いですし、ユダヤ教特有の名前から改名することもありました。
▲キリスト教への改宗を迫ったキリスト教社会ですが、集団的に改宗した元ユダヤ教徒たちが社会に存在するKとに対して、自分たちとは違うのだという思いが根強くありました。
けれども、名前や言葉や見た目で区別できないことから、かえって不安な気持ち、わだかまりが残り、「改宗しても血は変わらない」「血は争えない」というように「血」が違う、人種がちがうものとしてユダヤ教徒を捉える「血の思想」がキリスト教徒のなかに生み出されました。
ユダヤ教徒を「ユダヤ人」として差別する、人種主義的差別のはじまりでした。
P37
★古代イスラエル王国の崩壊で離散したユダヤ教徒はごく一部にかぎられ、ほとんどの住民はそのままその地にとどまり、のちにキリスト教やイスラームに改宗していったということです。つまり、現在のアラブ・パレスチナ人の祖先ということになります。
P39
植民地から強引に人や資源を奪うことを正当化したのが人種主義でした。
自分たちより劣った人種だから自分たちと同じ様に接する必要はなく、優秀な自分たちは彼らを家畜のように扱ったもいいし、その土地を支配してもいい、とわけです。
植民地主義は人種主義=人種差別なしにはありえませんでした。
ヨーロッパ諸国で今も残る、いわゆる「有色人種」を差別する人種主義と、ユダヤ人を差別する人種主義の二重の人種主義が現われてきたのが大航海時代でした。
そういう差別意識と一緒になった植民地主義によってヨーロッパ諸国は富を得ていきます。
そうして、18世紀末、フランス革命がおきます。
ヨーロッパで国民国家が進むにつれ、ユダヤ人解放論争はヨーロッパ中に広まりましたが、どこにおいても、け局はユダヤ人排斥に傾いてきました。そして市民社会的ではない、民族主義的な国民国家がヨーロッパ中を席巻しました。
P44
20世紀になってドイツでナチスが政権に就くと、法制度的にユダヤ人の「非国民化」が進められました。1935年のニュルンベルク法によって、祖父母4人のうちにひとりでもユダヤ教徒がいれば、その人物は「ユダヤ人」であるとされ、「国民」だったはずのユダヤ人から居住や職業の自由といった権利を剥奪することが法的に正当化されました。
P49
民族主義的な国民国家は、その構成員である国民とともにホロコーストをもらたらしてしいましたが、その同じ過程によって生み出された国が、1948年に建国されたユダヤ人の国、イスラエルです。
ただし、中心となったのは、「国民ではない」とされた人たちでした。
P53
ユダヤ民族だから国民ではないとされるなら、ユダヤ民族だけの国をつくる、というのがシオニズム
キリスト教社会から差別されているのに、差別している相手に協力を頼み、パレスチナからアラブ先住民を追い出し、一定の土地を奪い、ユダヤ人に分け与えるという、非常に植民地主義的な考え方。
P60
大戦終結から2年後の1947年、国連がパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する決議。その後第一次中東戦争、48年にイギリスがパレスチナから撤退した際に、シオニストがイスラエル独立を宣言。
ヨーロッパ諸国に加えてアメリカ、ソ連とう大国がイスラエル建国に深く関わり。
ユダヤ人問題を抱えるこれらの国々は、自分たちの中でユダヤ人問題を解決できず、外に解決を求めて、イスラエル建国を軍事的にも国際政治の面でも、資金面でもサポートした。
シオニズムが生まれた東ヨーロッパからロシアにかけてのユダヤ人コミニュティは、8-9世紀の改宗に由来することがわかっています。血のつながりということを言うなら、古代イスラエルにいた古代のユダヤ人たちの末裔は、むしろ今もそこに住んでいる人たちで、今のキリスト教徒やムスリムのアラブ人であることが十分にあります。
P69
「ユダヤ教徒のアラブ人」を排斥するため、人種主義を導入。
ユダヤ教徒は、信仰においてユダヤ教徒なのではなく、「人種としてのユダヤ人」であり、ユダヤ人は絶対的にアラブ人ではありえない、とう強引な解釈が導入された。
アラブ人のなかにユダヤ教徒とキリスト教徒とムスリムが存在している現実にも関わらず、椅子れえるは、在れ武人にはムスリムとキリスト教徒しか存在しないことにしたのです。
p74
日本はどんなふうにしてできたの
ー日本は明治時代から国民国家になったの? -
そうです。
明治政府は欧米にならって近代国家建設を進めました。
まだ江戸時代だった1853年、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航して開港をせまりました。「黒船来航」です。
徳川幕府は良く1854年に日米和親条約を、1858年には日米修好通商条約を結びます。
アメリカ側の圧倒的な軍事力を背景に結ばれたので、日本に滞在するアメリカ人は日本の法律に従わなくていい治外法権を含む不平等条約でした。
オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも同様の条約締結を強いられました。
外国のいいなりになった幕府に対して、攘夷(夷=外国人を攘=払いのける)と呼ばれる運動が起こり、1867年、「攘夷」派勢力の薩摩、長州などが中心となって江戸幕府を倒し、戊辰戦争に勝利して1868年、明治政府が成立します。
攘夷を唱えていた薩摩、長州ですが、欧米勢力の軍事力の強さを知り、明治政府となったときには方針転換をしていて、「富国強兵」のスローガンのもと西洋にならって近代化をめざします。
多くのおアジア諸国がヨーロッパ列強の植民地にされ、日本も植民地にされるかどうかの瀬戸際でしたから、人は「脱亜入欧」(アジアから抜け出して、ヨーロッパの仲間入りをする)の掛け声とともに、欧米諸国の国の制度や国民経済の作り方を学び、軍備の増強をはじめとする急速な近代化政策を推し進めました。
p80
官軍の死者を慰霊するために靖国神社が建てられてた
戊辰戦争が終わった1869年(明治2年)、戊辰戦争での官軍側の死者を慰霊するために靖国神社(当初の名前は「東京招魂社」で、1879年に改称)が建てられました。
自軍の兵士を奮い立たせ、遺族の不満を鎮める狙いがありました。
靖国神社は「官軍」の死者と「賊軍」の死者を徹底して区別しています。
奥羽越同盟から途中で寝返った秋田藩の死者は祀られていますが、会津藩、仙台藩の死者は含まれていません。
明治維新の一翼をになった西郷隆盛も、西南戦争を起こしたので祀られていません。
このような政治的意図を反映しているのが、靖国神社です。
日本の近代国民国家のはじまりにおてい、官軍の死者をたんなる個人の死ではなく、「国民」として国家のために犠牲になった意味のある死として尊ぶための神社がつくられたことは、とても象徴的です。
琉球処分、日清・日露戦争、韓国併合はひとつながりのこと
1869年の函館戦争に勝利した明治政府は、蝦夷地域を「北海道」と改称。1870年代から80年大にかけて、本土から北海道への入植活動、アイヌの猟や漁尾を禁止、道庁設置、領土拡大。
王国としての独立と、薩摩藩および清朝への二重の従属的関係のバランスを保っていた琉球に1872年一方的に琉球「藩」を設置。1879年に清との団交、王国廃止、廃藩置県による「沖縄県」設置。いわゆる「琉球処分」
琉球への侵攻は清との間での東アジア地域での権益争いで、日清戦争(1894年~95年・明治27~28年)はその延長線上にありました。
注意が必要なのは、日清戦争は朝鮮半島の支配をめぐっての争いで、朝鮮半島が主な戦場だったということです。
その結果、戦争に勝ったに日本は、従属関係にあった清から朝鮮半島を切り離すことに成功し、朝鮮を大韓帝国として独立させます。
そして次の戦争が日露戦争(1904年~1905年・明治37~38年)で、朝鮮半島を狙うロシアを追い払って、日本が朝鮮半島の権益を独占するための戦争でした。
主な戦場になったのはやはり朝鮮半島でした。
この戦争に勝った日本は、日韓保護条約によって大韓帝国を独占的に保護領をして支配することに。
1910年の韓国併合に先だって、事実上の植民地支配がここからはじまります。
P86
GHQによる1946年の覚書によって、45年の沖縄戦のあとアメリカ軍の占領下にあった沖縄は日本から分離。
翌47年には沖縄を除く「日本」で日本国憲法が施行、51年、日本はサンフランシスコ講和条約を連合軍の国々との間で調印。
これによって、日本は主権を回復しますが、沖縄はアメリカ軍の占領が確定。
72年に「返還」されるまでアメリカ軍の統治下であった。
サンフランシスコ講和条約は第二次世界大戦の戦後処理の講和条約、アメリカを中心とする資本主義陣営の「西側諸国」と、ソ連を中心とする共産主義陣営の「東側諸国」との対立が深まった影響を受けて東側陣営は不参加。
同じ日に調印されたのが、「日米安全保障条約」。この条約は日本を東アジアの冷戦構造に組み込み、アメリカの軍事戦略に日本が協力するためのものでした。
P91
国民はどのように決められたか。
国民国家建設をめざす明治政府は、それまでの厳格な自分や地域の差を無くし、たてまえとしてはみな同じひつつの「国民」という国を作ろうとします。
誰が「国民」なのかはっきりさせるために、明治政府が最初につくったのははじめての全土的な「戸籍」でした。
1872年(明治5年)、壬申戸籍がつくられます。この戸籍にもどづいて、1899年に国籍法が制定されます。
登録すべき対象とされたのは、横浜や神戸の居留地の外国人を除く皇族以外でそのとき「日本」に「居住」していた人全員でした。
天皇に従属する「臣民」という対場で人々を平等に扱うものでした。
「日本」の範囲の中に、朝鮮半島や中国大陸やほかの東南アジアなどから来ていた人々とその子孫も多数いましたが、無差別に登録の対象とされました。(江戸時代は鎖国していたが、実際には他国の交易、貿易があった。)
最初の戸籍登録時は「出自」を問うよりも、「居住実態」を把握することが重視されました。
しかし、その後の戸籍の継続は、戸籍を持つ親の子が戸籍に登録されるという血統主義の考え方がとれました。
戸籍が家制度に結びついて、家族単位の登録となったためです。
今日本に戸籍がある「日本人」は多くが壬申戸籍に登録された人たちの子孫となる。
140年前の登録から、1世代30年の計算で、だいたい4代から5代前となる。
壬申戸籍に登録された「元祖日本人」はおよそ3300万人でした。
敗戦後、「日本人」の範囲が一挙に狭くなり「単一民族国家」という考えが浸透した。
p106
日露戦争の「総力戦」を通して「日本人」「天皇の臣民」という意識が広がった。
敗戦後、日本の旧権力層は対・社会主義陣営でアメリカと手を組んだ。
(東西対立があったから、日本の旧特権勢力は解体されなかった)
P124
国民国家以前、日本で言えば明治以前は身分社会でしたから、社会的に低い層の人が自分の能力で高い階層に出世していくことはほぼありませんでした。
国民国家は、宗主国や首都や都会といった「中央」が、弱い立場である植民地や地理的に中央から離れた地域や田舎など「周辺」を利用するという構造
例
東北地方は、「東北」という方角を用いた呼び方そのものが東京から見た呼び方で、中央の視点です。
P144
放射性ヨウ素の半減期は8日。2ヵ月でほぼゼロに近づくが、放射性セシウムの半減期は30年。8分の1になるのに、90年、16分の1になるのに120年。ほぼ無害化するのに300年と言われています。
大量に出し続ける使用済み核燃料には、半減期が2万4000年のプルトニウム(核兵器に使われます)が大量に含まれています。10万年保管しても16分の1程度にSHか放射能は低減しません。
原子炉はもともとは核兵器の材料であるプルトニウムを製造する装置として、第二次世界大戦中に開発されたものです。
核兵器の原料になる核分裂するウランは、ウランの中でも0.7%しか存在しません。
核兵器を作るにはそれを100%近くに濃縮しなければなりません。
ところが、分裂するウランの濃度を5%程度に濃縮して、連続的に分裂させていくと、分裂しないほうのウランがプルトニウムに変化することがわかりました。
現在原発に使われている核燃料は、分裂するウランを5%程度に濃縮したもので、それを連続的に分裂させる密封した容器が「原子炉」です。
P157
一般の人の被爆は年間1ミリシーベルト以下にする、と法律で定められている。
学校の校庭使用指示の基準がいっきに「年間20ミリシーベルト」に引き上げられたのも法律違反の状態です。