2015年9月24日木曜日

投稿日 2015年9月24日木曜日

読みかじり - Japanese入門 桜と粋の政治学 JAPAN CLASS―一方、そのころ日本では…- 秦まゆな氏寄稿より


■庶民の花見を奨励した吉宗

世の中に絶えて桜のなりせば
春の心はのどけからまし

平安時代の初期の貴族、在原業平が詠んだ歌です。

「桜がなければ、春の心はどれほどのどかだっただろう」と、春が近づくにつれ、桜がいつ咲くだろうかとソワソワしてしまう気持ちをうたっています。

1200年前の貴族も開花を待ちわび。。

そんな日本人の桜に対する愛を、政治にも活用した徳川8代将軍・吉宗。

浅草の隅田川堤、王子の飛鳥山、品川の御殿山などは「享保の改革」の一環で桜を植樹し、飲食店まで設置をして、庶民の花見を奨励した。

この時代は財政難、米価の安定、経済政策に知力。

庶民の政治に対するガス抜きが目的の目安箱の設置。

花見も、火除地という火事対策としての意味合いや、隅田川堤は多くの人出によって地面が踏み固められるという、治水の面でも効果を狙った政策。


■徳川幕府と相撲の関係


戦国時代以来、武士のものと考えられていた相撲を、江戸時代に入り、庶民も楽しむようになった。

木戸銭などを取り、興行にする集団が現れ、幕府はたびたび禁止令をだし、取り締まり。

やがて、寺社の普請(修理、建築工事)資金を集める手立てとshて、寺社奉行へ申請を出し、相撲興行が行われるようになった。

相撲を生業とする「相撲渡世集団」が複数できてきた寛政3(1791)年、11代将軍、家斉のときに、
江戸城内で相撲興行、いわゆる「将軍上覧相撲」が行われた。
これに合わせつくられたのが「横綱」という最高位。


■アメとムチの使い分け

そもそも、相撲を禁じていた幕府がなぜ江戸城内にわざわざ土俵までつくり、上覧相撲を行ったのか?
それはひとつの渡世集団に特権を与えるためのパフォーマンスでした。

身体が大きく、力も強い力士たちは町で乱暴狼藉を働いたり、物を略奪することも珍しくなかったらしく、幕府は相撲年寄に対し、「内内でよく取り締まるように」との令も出しています。

つまり、幕府ではどうにも手に余る暴れん坊集団のひとつに権威を与えることによって、
「お前たちのことは特別に認め、保護もするから、周囲の迷惑をかけぬよう、自分たちでそのほかの集団のこともきっちり取り締まっていくように」という政治的意図があったのです。



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