気になったところを抜粋記録。自分がネガティブになったら、また読み返そうと思う!
ネットでググると、あの大谷選手も参考にしてる!?
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ページ42
一番最初に考えた事は、今、一体原理を考えてみると、人間は、日頃、人生に生きる刹那刹那、いかに心を運用することが適当なのだろうか、ということである。言い換えるならば、心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は、よくもなり、悪くもなるのだ、ということだ。
長い間、病に苦しめられて、どんなことをしても、助かりえなかった私は、結局、最後に、苦しみ悩み本当に、命がけでとっくみ、ようやく考えてついた事は、いつか、あなた方の幸せにもなる、ということである。
つまり、人間の日々の人生に生きる刹那刹那、ちょっと笑うこと、冗談言うこと、その刹那にも、その心の思い方、考え方が、やがて、我々の生命を、完全になしあうたか、なしあたわざるかと言う事実が、生み出されるのである。
もっとわかりやすく言えば、我々の命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い意味における人生の事柄を、心の運用いかんによって、決定することができる、と言う心理を、私は悟りえたのである。
「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」
これが数十年来かかって考えて、苦心の末、ようやく悟りだした、人間の命に絡まる宇宙真理であった。
ページ51
「人間の生命に与えられた活きる力というものは、肉体にあるのではなく、霊魂と言う気の中にある」
「人間の健康も、運命も、心一つの置き所」
宇宙エネルギーを人々は神といい天之御中主髪と名付け、あるいは如来と呼び、アラーと言うように、いわゆる神・仏と言うのを見つけたのである。
ページ56
つまり、心一つの置きところ、積極か消極かというだけで、人生の幸福の宝庫が開かれるかどうかが決まってしまう。
ページ60
力の誦句
私は、力だ。力の結晶だ。何者にも打ち勝つ力の結晶だ。だから何者にも負けないのだ。病にも、運命にも、否、あらゆる全てのものに打ち勝つ力だ。そうだ!強い、強い、力の結晶だ。
p75
天風哲学の根本的な考えは、
「この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、嬉しい、そして調和した美しい世界なのである」
ページ104
「創造主によって便利の言葉を我々人間だけに与えられているか、言葉と言うものが、積極的に表現された時と、消極的に表現された時とでは、直接的にその実在意識が受ける影響は非常に大きな相違がある。先ほどのように、今日は不愉快ですとか、頭が痛いとか、熱がありますとか、気分が良くない、とか言ってるときには、愉快を感じないだろう。今日はうれしいです、楽しいです、ありがたいです、と言う言葉を言ったときには、何とも言えない快さを、その気持ちの上に感じるだろう。
その感じると言う事は何か感じるか、お前はわかるか。実在意識を感じているんじゃないか。そして実在私が感じたものが、直ちに潜在意識に直接的に影響して、そして潜在意識が実在意識と同じような気持ちになると同時に、神経系統の生活機能も同じように良くも悪くもなるのだ。そうすると結局、お前の生きる力が、その言葉の善し悪しによって、やはり良くも悪くもなるじゃないか」
ページ109
それは人生と言うものは、言葉で哲学科され、科学化されているかである。すなわち言葉は人生を左右する力があるからである。
ページ150
繰り返して言う。運命と言うものには2種類ある。どうにもしようのない運命を、天命といい、人間の力で打ち開くことのできるものを宿命と言うのである。
ページ168
「人生は心一つの置きどころ」
繰り返して言う。どんなことがあっても、迷信に落ちちゃいけない。迷信と言うのは人間として恥ずかしいことだ。迷信と言う文字を見て、その文字はなんとなく気高く感じるだろうか。
ページ170
「自分の気持ちを、自分自身で、もっとにこやかにしたらどうだい」
ページから173
「お前は信念、強くなる!」
「今日1日、怒らず、怖れず、悲しまず、を実行したかどうか」
「正直、親切、愉快、人生の責任を果たしたかどうか」
「明日は、今日よりも、もっと立派な人間として活きるぞ」
そして、いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍して喜ぶ気持ちになって、その一刻を過ごすと言うことが、何十年来の私の習慣である。
そして、朝起きると、まず、第一に、にっこりと笑う。「今日1日、この笑顔を壊すまいぞ!」と自分自身に約束する。
ページ291
だから、勇気さえ心から失わなければ、何事もこの世に恐れるものはないのである。
昔の諺にも、
勇気は常に勝利をもたらし恐怖は常に敗北を招く
というのがある。
断じて行えば、鬼神もこれを避く
勇気の発するところ金石もまた透る
である。
だから、人間の心から行がなくなると哀れなものである。万物の霊鳥なんて名ばかりになってしまう。四六時中本当に安らかな気持ちで人生を生きることができない。
何か「事」があるとすぐに心の調和を失い、心の平和が掻き乱される
だから、理屈は抜きにして、たとえ、どんなことがあっても、断然、勇気をしなうことなかれ、これがモットーなのである。
前にも言った通り、この世の中や人生には、めったやたらに恐ろしいと言う事はありましない。恐ろしいと思っているのは、自分の心なのである。
今まで生きてきた過去を考えてみなさい。のべつそんなに恐ろしいことがあったか、なかったか。
生まれつき神経過敏な人間はいないと言っただろう。生まれたときには博士の如し。それが、今のような状態になったのは何故かと言うと、自分自身で生まれた時に持ってきた勇気と言うものを影薄くしてしまったからだ。たくなっているのではない。その上に消極的な弱い心が蓋をしているからなのである。
ページ307
だから、1番手っ取り早いのは、諸君が何かしら不都合を感じたり、不満を感じる場合があるならば、そういう方面から考えないで、それが完全に成就した姿を、自分の心に描きなさい。あーなったらいいな、こうなったらいいなぁ、と言う念願だけを、心に炎と漏らさないで、新なったらいいなぁと言うものは、すでに、成就してしまったときの気持ちや、姿を、心に描くのだ。
これは、神人への相違だけれども、そこに微妙な相違があるのである。なりたいなぁ、と言う気持ちよりも、なっている姿を、心に描いたときに、現実から程遠いことでも、霊の世界では、もうそれが、本当になっているのと同じことになるのである。
諸君らは、見える形のものにならないと、それを事実として承認しないと言う態度の中に、非常な見当違いがあるのである。だから、理想の中に描く絵はもう、確実に、現実化したものでなければならない。